スピリチャル9条の会〜〜boosuka-asuka’s blog

我らの戦いとは、相手を消滅することではない。 武器なきたたかいの勝利とは、「愛」で全てを包み込み「神人一体」の世を創り出すことなり。 我らと「ごく一部の存在」とのたたかいは、剣ではなく、「憲法」を以てたたかえ。そのための9であり99である。 ペンは剣よりも強し。繋がりあい励ましあいたたかえ。 とある存在の霊言より 御筆先・ブースカ明日香

審神者/その7

 はじめに/ブースカ明日香より

 

北極ミミズさんの審神者を交えた論文を紹介する前に、皆様へお知らせします。実は既に、、

 

永遠の神代を生きるか否か、全ての魂が、自らの判断で決定しました。

したがって以下の文章は、神代に生きる決意をしてくださった全ての「存在」に対してのメッセージ、

となります。m(__)m

 

 

神代の理念と私たちの生き方

原稿到着・2020年11月29日(日)18:26、北極ミミズ

 ブースカ明日香さん、審神者/その6に関して適切なコメントをありがとうございました。
 いただいたコメントを読み終え、改めて考えたことも含め、2021年のお正月から開始となる「神代」について、その理念と私たちの生き方についての考察を、 国常立尊からいただいた審神者をベースに書き記していきます。

 

1)「善なるもの『のみ』」が神代に値する

 昨日(11/28)ブースカ明日香さんの追加コメントにあったように、神代には不老不死という、人間が最も望んでいた内容の一つが実現します。けれど、明日香さんがおっしゃるように、それは決して楽で、有難いことばかりではありません。

 もし、来たるべき世界に「悪の意思」を持つ者が現れ、当人が不老不死であるとしたらどうなるでしょう。もし、その者がカリスマ性を発揮し、ヒトラーのように人々を先導したとしたら。

 神代は永遠の恐怖の世界となるでしょう。

 

 だから、神代では善悪の定義が根底から変わるとはいえ】「善なるもの『のみ』」がそこで生活するに値するのです。

 わたしたちは自発的、積極的に、みずからの魂の消滅を選ぶことをせず、常に、己の「心理」と「行動」と「生活そのもの」を自省しながら、「善なるものとはなにか」を自らに問い続け、『真理』を探求していく、そんな姿勢が望まれます。

 

2.「悪なるもの」の芽をつぶす

 上の(1)を達成するために、神代において、以下のものは徹底して排除されます。

 

A・ヒエラルキー

 : 神代では、あらゆるヒエラルキーが排除されます。

Wikipedia(以下「Wiki」)による定義

 ヒエラルキーとは、階層制や階級制のことであり、主にピラミッド型の段階的組織構造のことを指す。

(ドイツ語: Hierarchie、ヒエラルヒー、英語: hierarchy、ハイァラーキ)

 

 排除される対象の中には、

「人間は動物より偉い」

「人間は、すべての生き物よりも高い価値を持つ」

という、肉食を合理化するためのキリスト教的、もしくは西洋的考え方も含みます。

 

 実は、これらの考えこそ「ヒューマニズム」の正体だと、国常立尊から教えてもらいました。なので当然現在人間界に存在する「格差」も許されません

 

 ただし一点だけ、神代で認められる「階層」というものがあります。それは

「神は人間よりも高い階層に存する」

ただこれだけなのです。

ブースカ補足/ただしこれも、

『Θ=マルス=「◯(まる)」の中に「ゝ(す)」を入れる』

とあるように、人は自らの魂を己の体内に呼び込むことで「神人(かみひと)」となるので、結局は、己の内側から涌き出でる「考え」や「思い」こそが神の意思であり、その思いを現実化することこそが、現世に生きる人(=全ての存在)のお役であることに気が付かねばなりません。】

 

B・暴力

 :国際紛争であれ、人間関係であれ、あるいは人間が動物や植物を育成する場合であれ、すべての暴力は許されません。もちろん戦争や紛争も認められません。

 家族内、職場内等、社会全体を通じて、あらゆる状況下での身体的、精神的、経済的虐待やハラスメントは、一切許されません。

Wiki」による定義(抜粋)

ハラスメント(嫌がらせ《いやがらせ》英: harassment)とは、特定、不特定多数を問わず、他者に対し不愉快な気持ちにさせることや、実質的な損害を与えるなど、不快感を与える行為の一般的総称。

 

C)不公正

 :(A)及び(B)から導かれることは、富の不均衡であれ、社会の不公正であれ、特定の者のみが利益を得るような社会制度は、一切許されないのです。

 

 ただし後で述べますが、神々による特別な処分を除き「罪刑法定主義」が「日本国憲法」に基づき継続されます。

ブースカ補足/神々による特別な処分。おそらく、この一言に違和感を抱く読者さんも大勢いらしゃると思います。

 

現世の存在であるわたしたちに与えられたお役とは、例えどのような試練があろうとも成就せねばならないものでした。《なればこそ、善も悪もないが、外道は存在する》

 

したがって、何度生まれ変わっても、神の意志に反抗、反逆するというお役を引き受けた魂も、当然いらっしゃいました。

それがわかっているからこそ、今世=現世で「鉱物(=地の底で、ジッと我慢の子であった(^^;;)」や、「クラゲ(=波間にユラユラと漂うのみ)」や、「ジンベイザメ(=お口をアングリと開けたまま、海中を回遊するo(^▽^)o)」などに生まれ変わって、時を待っていた「魂」も大勢いらっしゃったのです。

 

しかしこれらの願いも叶わず、最後の最後まで「人」として頑張り続けた「存在」がおられた。

その方は、神の意志を受け入れず、「人」として「八百比丘尼として神を超えることを望んだ。しかしそれは結局、叶わぬ夢だった。

 

すなわち、現世における「実体=実態=三次元投影体」が、どれだけ「自らの魂の意志」に反して存続を乞い願おうと、最後は、自らの魂である「神」の意志に従うしかなかったのです。

 

3.善なるもの、その理念

a)日本国憲法の遵守

 :日本国憲法とそれに基づく法令が遵守されます。そのため、日本国憲法を悪なる方向に向かわせ、変更しようとしたすべての個人と団体には、その罪に応じた刑罰に処せられます。

 

 その処罰の基本は『神代の世界への出入りを一切許さない』というものです

 

 ただ、日本国憲法の順守を決意し、自らの罪を十分に自覚し、魂の浄化に努め、さらに魂の消滅を選ばなかった者については、神代における「保護観察処分」としたうえで、一般住民の一人としてやり直してゆくことになります。

 

b)スピリチュアルな世界観を持つ

 :Wikiでは、スピリチュアリティについて、 以下の説明 (抜粋)がなされています。

Wiki」による定義(抜粋)

 スピリチュアリティ(英:Spirituality)とは、人間に特有な心理的、あるいは精神的活動の総体、または任意の部分を指す用語である。

 呼吸や息、いのち、意識、霊感、風、香り、聖霊や魂を意味するラテン語スピリトゥス(spiritus)に由来する。

 スピリトゥスは、人間に命を与え、生かす神の息吹であるとされた。また呼吸、血液等と同一視され、「生命の原理」と考えられていた。

 スピリチュアリティに定まった意味や定義はなく、多様な意味を持つ。個人の内面における奥深く、しばしば宗教的な感情および信念と関連があるという認識が広く持たれている。

 英語のspiritualityに当てはまる日本語はないため、文脈によって霊性、霊的、精神世界、精神性、精神主義、宗教的など様々に訳され、分野やテーマによっても意味が大きく異なる。

 

 このように人間は、神代において常に霊性を保ち、自らの魂との交流に、常時心掛けることが必要です。

 これは、下記に述べる「アニミズム」の世界観に通じるものです

 

3)「アニミズム」に基づく世界観を持つ

 : Wikiによると、アニミズムについて以下の説明がなされています 。

Wiki」による定義(抜粋)

 アニミズム(英語: animism)とは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』(1871年)の中で使用し定着させた。

 日本語では「汎霊説」「精霊信仰」「地霊信仰」などと訳されている。

 この語はラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味である。

 

 この説明だけでは不十分と思えるので、ユヴァル・ノア・ハラリによる説明を下記に抜粋、引用します。

 アニミズムとは、ほぼあらゆる場所や動植物、自然現象には意識と感情があり、人間と直接思いを通わせられるという信念だ。

 〜中略〜

 アニミズムの世界では、物や生き物だけが霊的存在ではない。死者の霊や、今日私たちが魔物や妖精、天使と呼ぶ類の、友好的なものや悪意に満ちたものもいる。アニミズムの信奉者は、人間とほかの存在との間に壁はないと信じている。みな、話し言葉や歌、踊り、儀式を通して直接思いを通わせられる。

《柴田浩之訳 サピエンス全史,上巻p.76,河出書房新社,2016年》

 

 このハラリの説明は、神々の意思をよく反映できているようです。

 

4.善なる生き方

 

あ)アイヌ民族の世界観

 国常立尊からの審神者では

現代社会において、神代の理念に最も近いのは、アイヌ民族の考え方と、生きてきた社会である。」とのことでした。

 これらを「アイヌの世界観(山田孝子著,講談社学術文庫,2019年)」に基づき考えてみましょう。

 

 ・アイヌの人々はアニミズムを基盤とし、すべての生き物は互いに育み合い、役割を担い合うという自然との共生の哲学を持っていた。 

 ・狩猟民族であったアイヌ民族は、前記の「西洋的ヒューマニズム」とは全く違う考え方を有していた。それは、人間・動物・植物は、地上の世界でともに住み、相補的、互酬的な関係を保つもの」であり、そこには「人間が自然を支配し、動植物を支配する」という考え方はなかった。

 ・アイヌ民族は、神(カムイ)でさえ、人間と相互交流するものと捉えていた。

 以上の三点から見いだされる結論は・・・。

 

 アイヌが住む世界には「ヒエラルキー」がほとんどなかった

といえます。

 

い)「すべてのものに宿る魂」を捉える

 現代の人間が、簡単にアニミズムを取り入れることは困難でしょう。しかし、神様がおっしゃるには、神代になれば人はすぐに「全てのものに存在する魂」に気づく、とのことです。

 今から殺されて食べられる運命の魚や鶏、一本の雑草や石ころ一つにも魂があることを知り、なおかつその魂と相互交流を図ることになれば、私たちホモ・サピエンスも偉ぶっていることは到底できませんし、『いま、自分は、目の前にいる「魂」に生かされている』ことに気がつきます。

 それ以外にないでしょう。

 

 同時に、自らの魂との交流を深め、自己の魂の浄化に日々努めることが必要とされるに違いありません。

 

う)「欲望への囚われ」を防ぎ、「利他」を深める

 私たちは、神代に当たって、まず「自分だけが」という考え方を排するべきでしょう。

 「自分は偉くなりたい」「うちは他よりも金持ちでいたい」その考え方が、「他人よりも欲しい」「もっと、もっと」という限りない欲望を産み、結果的には格差と暴力を容認することにつながる可能性を持つからです。

 

 神代に「常(とことわ)を生きる」上では、自分を愛すると同時に「利他」の精神が重要でしょう。

 気を付けていても、いつのまにか利己主義に陥ってはいないか。

 考える「他者」が結局人間だけに限定され、共にこの世を生きているはずの動植物、生態系に考えを及ばせていないのではないか。

 

 そのような「自省」が日々求められており、そのうえで、私たちは神代に生きる自らの魂について、思いを馳せるべきなのでしょう。

以上

 

2020年12月1日(火)09 :34

審神者&原稿/北極ミミズ

校正、構成、補足、文責/ブースカ明日香